日本の昔と今とこれからをクラフトビールを通して再発見する「JAPANESE BEER ODYSSEY」。日本文化を縦横無尽に醸す旅の先でどんなクラフトビールと出会うのか…ここJBO GUIDEでは、オトモニオリジナル銘柄のテーマとなった文化をより深く掘り下げてご紹介していきたいと思います。
【文明開化麦酒】黒い船でやってきた!夏の風物詩ビールとラムネ、約170年の不思議な縁
JAPANESE BEER ODYSSEY第10弾の銘柄は「文明開化麦酒」。日本に入ってきたきっかけから、現在に至るまで…実は様々な共通点を持つビールとラムネを結び付け、造り上げたオリジナルビールです。
今回のJBO GUIDEでは、不思議な縁を持つ2つの飲み物、ビールとラムネの昔と今についてご紹介していきたいと思います。
きっかけは歴史で習うあの人!ラムネとビールのはじまり
ラムネとビールの「日本でのはじまり」には、どちらも同じ人物が関わっていました。その人物の名はペリー提督!ラムネもビールも1853年(嘉永6年)のペリー来航が日本における契機だったのです。では一体それらがどのようなものだったのか。それぞれ詳細を見ていきましょう。
ラムネの原型である炭酸飲料水が初めて日本に初めて伝えられたのは、1853年(嘉永6年)。黒船に詰まれた炭酸レモネード(レモネードという言葉がなまって、ラムネになったといわれている)を艦上で交渉役の役人たちに振る舞ったのがきっかけでした。
ちなみに当時ラムネが入っていた瓶は「きゅうりびん」と呼ばれるコルクで栓をしたものであり、栓を抜くと「ポンっと」大きな音がするもの。炭酸にまったく馴染みのなかった江戸の役人たちは、この音にびっくりして「さては新式銃か!」と思わず腰の刀に手をかけたといいます。それ故、ラムネは当時「ポン水」や「鉄砲水」などと呼ばれていました。
そしてビールもまた、ペリー来航が日本ビール史における重要なきっかけでした。黒船が来航したことによって、日本人が初めてビールを醸造することになったのです。
ペリーが幕府に献上し使節団にふるまわれたアルコール、その中のひとつに「土色をしておびただしく泡立つ酒」と呼ばれた酒がありました。そう、これがビールです。当時人々は黒船に驚き、怯えていました。それに対し「臆することなかれ!彼らが持参したビールなる酒なんて簡単につくれる」そんなメッセージを示すため、蘭学者である川本幸民が日本ではじめてのビールの醸造に挑戦したのです。
川本幸民は自宅の竈(かまど)を使い、文献を読み解き、ビールの醸造に成功しました。幸民が造ったビールが美味しかったかどうかはわかりませんが、残っている文献を読み解くと彼が造ったビールは「上面発酵のエールビールであった」ということがわかります。現在日本では下面発酵のピルスナーが主流ですが、日本のビール史は「上面発酵」のエールビールから始まったというのはなんだか不思議な気がしますね。
地ラムネ地サイダーブームと、地ビールブーム
開国がきっかけで少しずつ日本国内で出回るようになっていたラムネとビールですが、これらはどちらも「文明開化の味」であり、なかなか庶民が手を出せるような代物ではありませんでした。シュワシュワと弾けるというまだ感じたことのない口当たりに、当時の人々はきっと未来を感じていたことでしょう。
そこから時は流れて現在。すっかり定番の飲み物となったラムネとビールに、新たな転換期が訪れました。それは日本各地で土地や地域の特色を生かした商品を作る、「ご当地」ブームです。1994年の酒税法改正により、まずはビールにご当地ブームが起こりました。いわゆる「地ビールブーム」と呼ばれる、第一次クラフトビールブームです。火が付き始めてからわずか数年余りで300以上の醸造所が設立し、日本各地で「地ビール」という言葉をみかけるようになりました。
そこから数年後。2006年あたりから今度はラムネやサイダーのご当地ブームが起こり始めます。(※ラムネとサイダーは元々味が異なっていたが、いまでは両者に味の差異はなくなり、ビー玉が入っているか入っていないかで区別されるため、ここからはひとくくりにして表現をする)。日本各地の農作物や名産品、文化や歴史を活かした地ラムネや地サイダーが次々と生まれ始めたのです。
そしてそこから20年。紆余曲折あったものの、ラムネやサイダー、ビールは今なお「クラフトブーム」が続いています。それはきっと、どちらにも造り手の熱い想いが溶け込んでいるからではないかと思うのです。
クラフトビールがお好きな皆さんは、ブルワーさんがビールに込めている土地の恵みや、熱き想いをご存じかと思います。では「地ビールや地サイダー」はどんな想いで造られているのか。そこに込められている想いを知り、さらなるビールとの共通点を探るべく、株式会社Anteの中巳出 理さん(以下:中巳出さん)にお話をお伺いしました。
地域の特産物を活かした商品を開発して、地域活性化を目指す
――株式会社Anteではどのようなサイダーを作っているのでしょうか?
中巳出さん : 地元石川県の特産物を活かした商品を開発しております。湯涌温泉の柚子を使用した「金沢湯涌サイダー 柚子乙女」や、奥能登の「揚げ浜式製塩法」で作られる希少な海水塩による「奥能登地サイダー しおサイダー」、糖度が高くおいしい「金沢すいか」を使った「金沢砂丘サイダー すいか姫」などを作っております。
――なぜ地サイダーを作ろうと思ったのですか?
中巳出さん : きっかけは2008年の浅野川の氾濫でした。集中豪雨によって特に大きな被害を受けてしまった湯涌街道をどうにかして復興したいと、湯涌街道の特産物を作ることにしたんです。
湯涌街道は別名「ゆず街道」とも呼ばれる場所。そこで柚子を使った地サイダーを開発することに決め、会社を立ち上げました。
――地サイダーの開発や販売に関して、大変なことはありましたか?
中巳出さん : OEMで地サイダー生産を行ったのですが、最低ロットが2万本だったことです。元々わたしが行っていたのは、現代彫刻アーティストとしての活動や、アメリカ相手に着物販売するECビジネス。「湯涌街道を元気にし、活性化したい」という強い想いはあったのものの、販路もなにも持たない状態で、2万本という地サイダーを販売しなければならなかったんです。
――2万本とは相当な量ですね…!どのようにして販売していったのでしょうか?
中巳出さん : 出来上がった地サイダー「金沢湯涌サイダー 柚子乙女」のラベルは、湯涌温泉と深い繋がりがある竹久夢二の絵を使用し、大正ロマン感じる雰囲気。それと連動させるように、そして大正ロマンの着物を着た女性達によるプロモーションを行ったのです。それがマスコミに取り上げられ、販路が拡大し、わずか1カ月半で1万5千本を売ることができました。
そこから13年。いまでは「金沢湯涌サイダー 柚子乙女」は、湯涌温泉を代表する名産品として親しまれております。
――「金沢湯涌サイダー 柚子乙女」の後は、どの地サイダーを手掛けたのでしょうか?
中巳出さん : 揚げ浜塩を使用した「奥能登地サイダー しおサイダー」です。2008年に国の重要無形民俗文化財に登録された、しかし一般的には知られていなかった能登の伝統技術「揚げ浜式製塩法」を伝えたいという想いで、この地サイダーを開発しました。
細かい砂を敷き詰めた「塩田」に、汲み上げた海水を霧状にまき、太陽の力で乾燥をさせて砂に塩を付着させる。こうして塩分を含んだ砂を集め、さらに海水をかけて塩分濃度の高い水を作り、釜で煮詰めて塩の結晶を取り出す。
このように手間暇かけてつくる「揚げ浜式製塩」は約500年以上の歴史を持ち、現在は唯一石川県能登半島のみで受け継がれている製塩法です。
そんな「揚げ浜式製塩法」による海水塩を使用し、海の恵みたっぷりの地サイダーを作り、能登の伝統文化発信に挑みました。
――地サイダーによって、地域の特産物だけではなく文化も伝えているのですね。
中巳出さん : そうですね。その他にも、能登の伝統的な塩文化を発信する拠点として、わずか7人しか住んでいない奥能登の限界集落に「しお・CAFE」を作ったり、かつての塩田を復活させるべく、塩メーカー事業も行っております。
――今後はどのような地サイダーを作っていこうと思っていますか?
中巳出さん : 我が社の企業理念は、地域の特産物を活かした商品を開発して、地域活性化につなげること。石川県はいろいろなストーリーをもった特産物があり、また生産者の方々も熱い想いを持っています。ですので、今後も様々な地サイダー開発に挑戦していければと思っております。
JBO銘柄第10弾はラムネをイメージしたビール「文明開化麦酒」
瓶の中に詰まった土地の恵みに文化、造り手の想いや情熱。地ラムネ地サイダーとクラフトビールは、しゅわしゅわと弾けるその炭酸の中に、たくさんのものを溶け込ませているのだと思います。
それらたくさんの共通項を混ぜ合わせ、今回の「文明開化麦酒」を醸造しました。ラムネを連想させる風味と爽やかな味わい。大きな歴史の流れや人々の想いを感じながら、目で舌でこのビールを楽しんでいただけたら嬉しいです。
文 : ルッぱらかなえ(小林加苗)
取材協力 : 株式会社Ante